LIFE
同じでなくていい
「え?」
Kちゃんと雑談していたときのことです。
彼女は突然そんなことを言い始めました。
「だって狭いんですもん。考え方が。
みんなおんなじでなきゃいけない国って、ほんま窮屈。
ちょっと人と違うことが好きだと、変人扱いされるんですよ」
確かに、日本人にはそういう面があるかもしれない。
みんなおんなじであることに安心感をおぼえる。
同じ服を着て、同じ音楽を聴いて、同じゲームをして、
同じ化粧をして、同じテレビ番組を見て、同じ物を買って。
Kちゃんは続けます。
「ワタシ、将来アメリカに行きます。お母さんと一緒に!」
「へぇ?!」
そっかぁ。アメリカかぁ。
それもいいよね。
若いときは、どんどんチャレンジしなさい。どんどんやりたいことやりなさい。
若くなくても、いや、若くなくなったらなおさらのこと、
みんなとおんなじで満足してないで、もっと素敵なことはないか。
もっとわくわくすることはないかって、探していかなくちゃね。
ちょっと刺激を受けた、ある日の午後でした。
ネット断食
今や52万人もいるらしいです。
「ネット依存症」とは、
<インターネットに没頭し、ネットが使えないと
いらだちを感じたり、対人関係を煩わしく感じたり、
健康を害したりするなど、心身に支障をきたしている
状態>(読売新聞)のこと。
インターネットはとても便利。
もはやネットを使わない生活は考えられません。
だから ネットそのものを否定したり、それ以前の生活に
戻ろうとするのは、あまり意味のあることとは思えません。
問題は、どう「使う」か。
ネット依存症にかかった人は、いったんそこから距離をおき、
生活のリズムを正す必要があります。
この「ネット断食」が、ちまたで広がっていってるとのこと。
いかに自分がネット社会に振り回されていたか、断食して
初めてわかったと言う人も少なくないらしいです。
夏休みは、子どもたちにとっても いろんな体験ができる絶好のチャンス。
花火を見たり、海で泳いだり、友だちとキャンプファイヤーしたり…。
スマホやゲーム機はちょっとおいといて、リアルな世界での
感動をたくさん味わってほしいですね。
そうそう、当然のことながら、楽器を弾いたり歌を歌ったり…も
バツグンに心と体にいいんですよ!
この夏、ぜひ没頭してみてください。\(^o^)/
Artとの出会いは人生を変える
姜 尚中さんの本を衝動買いしてしまいました。
ファンだったこともありますが、
タイトルに惹かれました。
『生と死についてわたしが思うこと』。
その中で、印象に残った一節があったので、
少し紹介します。
<わたしたちは3.11で生と死の近さを知りました。(中略)
非常に重たいテーマで昔なら宗教に向かったでしょうが、今は
必ずしもそうはいかない。たぶん、美術館は神なき時代の教会、
日本でいうと神なき時代のお寺なんでしょう。それぐらい絵との出会いは
ものすごく大きい。絵を見つめて自分を見つめなおす。そういう時間が今、
一番必要なんじゃないでしょうか。>
彼自身、一枚の絵(デューラーの自画像)に出会ったことで、
人生の転機を迎えたという体験があるそうです。
やっぱりそうか!と思いました。
美術でも音楽でも、Artの力には底知れぬものがある。
口で言い表すことのできない、いわゆる「ショック」。
その劇的なる出会いが、人生を変えてしまうことだってあるんです。
出会いは大きい。人との出会いはもちろんだけど、
Artにも、もっともっと出会うべき。
そして、こどもたちには できるだけ先人の
作品を伝えていかなければ。
大人にはそういう使命もあると思いました。
「疲れた~」は「がんばった~」
え?めちゃくちゃしんどい?
しんどいだけじゃなくて、イライラのピーク?
おまけに、やらなければいけないことは山積。
あれもこれもそれもどれも、みんなやりかけたままだし、
家の中はちっとも片づかないし。
もしかして、自分はダメだ、ダメだと思っていませんか?
こんだけがんばっているんですもの。
疲れて当たり前。
しんどいの、当たり前。
「疲れた~」は、「がんばった~!!\(^o^)/」にチェンジ。
そして、ちょっとは休みましょう。
堂々と、ね。(^_-)-☆
ほんとうの自立とは
温熱器で腰をあたためてもらってる間、
いろんな雑誌を読んでリラックス。
ホッとすると共に、貴重な情報収集の時間です。(^^)
今日はこんな記事を見つけました。
勉強がよくできて有名大学に入っても、就職したあと
社会に順応できなくて、あえなく脱落してしまう若者が増えている、と。
<自立>できることが大切とは言うけれど、
日本では<経済的自立>に論点が集中しがちですね。
でも、それ以前に「自分の身の回りのことが自分でちゃんとできる」という自立。
「多様な人間と関わることができ、社会的に貢献できる」自立。
その二つが重要だ、とする意見でした。
東日本大震災のとき、「自分が突然死ぬようなことがあったら、
この子は一人で生きていけるのか?」と思ったら、急に不安になった。
そういう母親がいた、ということも書いてありました。
<いろんな人と関われる精神的な強さ、しなやかさを持ち、
自分のことがちゃんとできた上で、人のためにも何かできる(しようとする)人間になる>
シンプルだけど、今の子どもたちにとって、
とてつもなく大きな目標ではないでしょうか。
日々のレッスンを通じても、その目標に近づく手伝いがきっとできるはず。
あらためて感じた一日でした。
「ちっちゃな積み重ねが大事だ!」
「いい子」ほど愛さなくては
「こども時代をふり返ってみるとさ…」
ある友人が言いました。
「いわゆる不良とか、できの悪い子ほど
先生とか周りの大人は心配するんだよね」
「うん。そりゃそうだけど?」
当たり前でしょ、と私は思ったのです。
しかし彼女曰く、
「それはある面 正しいけど、ある面正しくない」
どういうことなのかよく聞いてみると、彼女の主張はこうでした。
成績が悪かったり、反抗したり、
問題を起こす子はよく心配してもらえる。
気にかけてもらえ、愛してもらえる。
だけど、まじめに がんばっている子は
あまり心配されないし、わりと放っておかれる。
この子は大丈夫ってみんなが思うから。
だけど、その裏には「いい子にして愛されたい」「ほめられたい」
って心もあるんだってことを、大人は見過ごしてしまっている。
いい子ほど、気にかけてあげなくちゃ。
いい子ほど、ちゃんと話を聞いてあげなくちゃ。
目をかけ、愛してあげなくちゃ。
彼女の主張に、わたしは軽い衝撃を受けました。
ほんとうにそのとおりだわ。
これからは、もっと心して対そう。
「いい子」には「いい子」の理由があるかもしれないものね。
いてくれたらいい
ときどき誰かにこう言います。
何もしてあげられない自分がふがいなくて、
そして、相手にそれを許してもらいたくて
つい出てしまう言葉です。
だけど…
今度は自分がそう言われてしまいました。
で、どんなふうに思ったかというと。
「とりたてて何もしなくていい」
…でした。
何かしてもらいたいと思ってるわけじゃない。
思ってたら、ちゃんとそう言うから。
いつも通りにいてくれたらいい。
それだけで、十分安心できる。
そう思いました。
なすがままに…
昔、もっと若い頃は、この言葉の意味が
わかりませんでした。
「あきらめる」という発想自体が「逃げている」
ように思え、とても寂しい感じがしたんです。
だから、この言葉の本当の意味について、考えてみようと
思うこともありませんでした。
ところが今は─
この言葉に、どこか美しく自由な感覚を感じているんです。
自分が小さな存在であることがわかってきたからでしょうか。
どうにもならないことがたくさんあるってことが、
わかってきたからでしょうか。
自然の理に沿って、なすがままに。
これからの人生は、それでいこうと思っています。
情けない自分と向き合う
疲れ果てたとき。
大泣きに泣いたとき。
それでも自分は自分。
自分をつき放してはいけないのです。
そのまんま受け止めて。
しばらく倒れて。
あの人もあの時、こんな気持ちだったのか。
やっとわかった。
そんなこともある。
いいこともある。
いや、むしろ それでよかった。
また明日から再出発。
最近突き刺さった言葉
大きいことも成せない」
ああ、その通り…。
「きれいに形をととのえようとするよりも、
そこに至る過程をたのしみ、いかに情熱をそそぐか。
その方が大事」
ごもっとも。
「今来た電車に乗れ。特急や新幹線でなくてもいいじゃないか。
たとえ各駅停車でも、ホームで待ってるよりずっといい」
これぞ真髄だなぁ。
本やテレビや新聞や…
いろんなところの、いろんな言葉に励まされてます。(^-^;