今日が誕生日の音楽家
ガーシュイン
9月26日にニューヨークで生まれました。
ガーシュインといえば 何といっても有名なのは
『ラプソディー・イン・ブルー』ですね。
この曲には、とても面白いエピソードがあります。
ある日、<新しい音楽の試み>と題したコンサートで
演奏される新曲の発注をガーシュインが請け負った、
との記事が新聞に掲載されました。
が、当のガーシュイン本人はまったく身に覚えがなく、
怒って抗議の電話をしたそうです。
すると、その相手は「もう記事になったから、仕方ないので
これから曲を作ってください」と開き直ったとか。
なんというか、いかにもアメリカ映画にでも出てきそうな話ですが、
これを機にあの名曲が生まれたのだから、運命ってわからないものですよね。
ちなみに、できた当初はタイトルが『アメリカン・ラプソディー』だったそうな。
でも、後日 作詞家であるお兄さんの発案で
『ラプソディー・イン・ブルー』に変わったとのこと。
う~ん、やっぱりこっちの方が なんとなく深みがあっていいなぁ。(^^♪
今日は、鬼才ファジル・サイのピアノで!
ホルスト
イギリスに生まれました。
女学校の音楽の先生をしながら作曲活動をし、
あの 『惑星』が誕生したのです。
『惑星』は、火星・金星・水星・木星・土星・天王星・
海王星の七つの曲から構成されていますが、一番知られているのは
何といっても木星(ジュピター)。
平原綾香さんが日本語の歌詞をつけて歌ったことで、一気に人気が出ましたね。
個人的には こんな思い出が。
あれは たしか、小学生のころ。
金曜ロードショーだか、日曜洋画劇場だか忘れてしまいましたが、
テレビの映画番組のエンディングテーマで流れていたのをおぼえています。
子ども心に、なんていい曲だろうとウットリ…。
洋画の中身と同じくらい、この曲を最後に聴くのが楽しみでした。(≧▽≦)
今日は、大植英次&大フィルの名コンビの演奏でどうぞ!\(^o^)/
クララ・シューマン
クララ・シューマンの生まれた日です。
クララについて語るとき、彼女に執着した
3人の男性の存在を抜きにすることはできません。
ひとりはクララのお父さん、ヴィーク。
彼女の才能を見出し、9歳からコンサートツアーに
連れ出します。ほかの子どもたちの教育には無関心、クララに人生を賭けます。
つぎに、夫ロベルト・シューマン。
生涯の伴侶としてはもちろん、自分の作品の弾き手としても、
彼女はなくてはならない存在。
精神病に倒れたのちも、クララに頼りっぱなしでした。
そして、最後にヨハネス・ブラームス。
ロベルトの弟子でありながら、その妻クララに惹かれ、
苦しみながらも熱烈に彼女を愛し続けます。
彼女にあてたラブレターがたくさん残っています。
さて、当のクララ自身は…?
女性の立場から彼女を見ると、まずそのたくましさに驚かされます。
8人も子どもを次々に生みながら、ヨーロッパ中を回り演奏会を
行っているんです。その実力たるや、あのリストも絶賛するくらいの腕前!
写真では やさしそうで物静かな美人さんですが、
なんのなんの、とても力強いイメージ!
どんな男性も彼女の周りでクルクル回ってたに過ぎないのでは?
と思ってしまうほど。(^^;)
ピアニストでありながら、優れた作曲家でもあったクララ・シューマン。
しかも、8人もの子どものお母さん。
まさにスーパー・ウーマンといった感じがします。
ドヴォルザーク
まっ先に思い浮かぶのは、やはり『家路』です。
心は、小学5年生のときの林間学校に飛んでいきます。
夜、大きな大きなキャンプファイヤーを
みんなで車座になって囲んだのです。
めらめらと燃えさかる炎をみつめながら
全員で合唱した『遠き山に日は落ちて』。
このメロディーがドヴォルザーク作曲の『家路』だと
いうことは、担任の先生から事前に教わっていました。
~遠き山に日は落ちて 星は空をちりばめる
きょうのわざをなし終えて 心かろく安らえば
風はすずし この夕べ
いざや 楽しき まどいせん まどいせん~
歌いながら、この光景は一生忘れられないだろうな、と
こども心に感じたことをはっきりとおぼえています。
アメリカに渡ったドヴォルザークが、その『新世界』の地から
遠い故郷・チェコを想ってきっと作ったのでしょうね。
胸をしめつける、どこまでも甘くなつかしいメロディーです。
1841年9月8日。
今日はドヴォルザークの生まれた日。
ドビュッシー
ドビュッシーの生まれた日。
ドビュッシーの音楽は印象派と呼ばれ、
色彩感覚いっぱいでキラキラした
魅力にあふれています。
長調なのか短調なのか、もはや見分けがつかない。
どこまでも自由に流れていく調べ…わたしは好きです。
ドビュッシー研究家としても有名なピアニスト、
青柳いづみこさんのことばによれば…
<明るいのにほの暗く、もやもやしているのに透明で、
柔らかいのに鋭く、優しいのに意地悪で、しずかなのに激しく、
冷たいのに熱く、漂っているようなのに深い>
貧しい環境から才能を見いだされ、周囲の期待を受けながらも
けっこう挫折も味わっているドビュッシー。
心の中には、複雑な思いや葛藤がうず巻いていたのかもしれません。
彼いわく、「音楽はことばで表現できなくなったところから始まる」。
口では言えないことを、音楽に託したのでしょうか。
中田喜直
まだ東京都が「東京市」だった頃、
中田喜直は、現在の渋谷区で生まれました。
中田喜直といえば、おなじみの曲がずらっと並びます。
「めだかの学校」「ちいさい秋みつけた」
「かわいいかくれんぼ」「バナナのうた」
「手をたたきましょう」「雪の降るまちを」…
数えあげたらきりがないくらい。
全国の小中学校の校歌を作曲したことでも有名で、
おそらく160校以上になるのではないでしょうか。
校歌って、よく似た感じの曲になりがちだろうに、
どうやって160も区別をつけて作ったのか、ひとつひとつを
じっくり比べてみたい気持ちになります。(^^)
小学3年生のとき、当時のピアノの先生から発表会の舞台で歌うように
言われて、歌詞をおぼえ一生懸命練習した ある曲のことを思い出しました。
ちょうど季節もピッタリです。
ひととき、遠いあの頃へ心の旅をどうぞ。
バイエル
みんな、有名なピアノの教則本です。
ふだんのレッスンでは、
「今日はブルクミュラーから弾こ」とか、
「チェルニーのあそこ、よく練習できた?」
などと、なにげなく口にしています。
だけど、よく考えればこれはみんな人の苗字。
ブルクミュラーという人が作った教則本であり、
チェルニーという人が作った教則本という意味なのです。
もし日本の苗字にあてはめたら、
「はい、松本の36番ひらいて」…と、いう感じでしょうか。(^^;)
バイエル(1806年の今日、7月25日誕生!)は、日本ではおそらく一番有名でしょう。
ところが、この人の伝記的なものは 現在ほとんど残されていません。
どんな人だったか、どんな生活をしていたか、全くわかっていないのです。
ピアノという楽器がだんだん改良されて一般に普及するようになり、
当時 先生と生徒もドッと増えたんでしょうね。
いちからピアノを指導するときに、優れたテキストが必要になりました。
バイエルさんは、一生懸命にこのテキストを作ったのだと思います。
今日では、タイトルもなく ときに単調に感じられる曲調が、
ともすれば敬遠されがちなバイエル教則本ですが、大人の方が
はじめてピアノを始める場合などは、とても使いやすく
練習しやすいテキストだと思います。
偉大な芸術作品を生むのも才能。
良い教則本を作るのも、また才能。
私たちには、どちらもありがたいことですよね!(^^)
シューマン
ロベルト・シューマンの誕生日。
出版業を営んでいた父のもと、
裕福な家庭で育ったシューマン。
幼いころから音楽の教育もふんだんに
受けさせてもらえ、幸せいっぱいだったそう。
しかし、成長するにつれ 試練も訪れます。
分裂症で自殺した姉と同じく、シューマン自身も
精神を病み、後年ライン川に身を投じて
自殺未遂まで起こしてしまうのでした。
悩み多きシューマンを最後まで支え続けたのは、妻であり、
彼の音楽の一番の理解者でもあったピアニスト、
クララ・シューマンでした。(ブラームスの回でも登場)
夫の作品のほとんどは妻のために書かれたし、
妻は、「夫の曲を演奏すると、いつも彼が語りかけてくる。
彼のように偉大な人を夫に持つことができて、とても幸せ」と言う。
はたから見たら、「えらい困った人を旦那さんにしてかわいそうやなぁ」
となりがちですが、この夫婦には変わらぬ愛と尊敬があったようです。(*^^*)
リヒャルト・ワーグナー
生まれたワーグナー。
去年ちょうど生誕200年を迎え、記念展示会が
関西でも催されました。
それをきっかけに、ちょっと敬遠していた彼の音楽に
近づいてみようと思いたち、およそ一年が過ぎ…
今どう感じてるかと言いますと。
「ワーグナーは深い。
そして、手ごわい。
はまったら最後、一日中彼の音楽に支配される」です。
この人の経歴たるや、波乱万丈のひとこと。
なんてドラマチック。なんて自分勝手。なんて自由奔放。
<鬼才>はなんでも許されるのか?
突き抜けて走ってきたから<鬼才>になれたのか?
いやはや、驚きの人生です。
え?どんな人生かもっと具体的に書け?
はい、ごもっとも。(^^;)
でも、一回ではとても無理なので…
何かにつけ、これから徐々に紹介していこうと、今 心に決めました!
まずは、どこかでよく耳にするあの曲をどうぞ。
リヒャルト・ワーグナーです。